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cate1-3 後北条氏について

北条氏5代の名前を挙げよ。

北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直

北条を名乗ったのは2代氏綱から。

後北条氏の滅亡について。

1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。

北条早雲を祖とし、戦国時代に戦国大名として関東を広く支配したが、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びた。

北条氏の祖、北条早雲の出自について。

備中伊勢氏から出て、「伊勢宗瑞」や「伊勢新九郎」と名乗った。

父の盛定は足利義政の申次衆として重要な位置にいた。

北条早雲と今川氏との関係?

宗瑞の姉妹にあたる北川殿が義忠と結婚。北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた[11]。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉妹にあたる北川殿が義忠と結婚。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。 なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江国の今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれていることが注目される。また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。かつては、出自の有力説の1つに貞藤の子とする説(後述)があったが、これらの事実とその後の宗瑞の経歴を考慮すると、この説が成立しがたいことになる[19]。 宗瑞は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 - 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に寝返っている[20]。

今川氏の家督争いと北条早雲

今川義忠が討ち死に。嫡男の龍王丸と一族の小鹿範満との間に家督争い。は京都にいた宗瑞は駿河へ下って調停、龍王丸が成人するまで範満を家督代行で決着。

応仁の乱で今川義忠が討ち死にした。残された嫡男の龍王丸は幼少であり、一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)との間に家督争い。これに扇谷上杉家と堀越公方足利政知が介入し、太田道灌と執事の上杉政憲とが兵を率いて駿河国に出兵した。龍王丸方にとって情勢は不利。北川殿は京都にいた弟の宗瑞を頼り、宗瑞は駿河へ下って調停を行い、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着。

駿河館(今川館)襲撃について?

龍王丸が15歳成人、小鹿範満は家督を戻そうとしない。宗瑞は兵を起こし、範満を自害させた。龍王丸は元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となった。宗瑞は所領を与えられ、興国寺城(沼津市)に入った。

北川殿は再び京都で将軍・足利義尚の奉公衆を務めていた宗瑞を頼り、長享元年(1487年)、駿河へ下向した。その時点で、太田道灌は主君の上杉定正に誅殺されて既に亡い。 宗瑞は兵を起こし、今川館を襲撃して範満とその弟小鹿範慶を自害させた。龍王丸は駿河館に入り、元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となった。 宗瑞は興国寺城(沼津市)を与えられた。

堀越公方の家督争い・伊豆討ち入りについて。

堀越公方・足利政知が死去。長男の茶々丸以外に、側室の円満院との間に清晃(のちの足利義澄)と潤童子をもうけていた。茶々丸は素行不良のため廃嫡され 茶々丸が土牢から脱出し、異母弟・潤童子とその母・円満院を殺して、事実上の公方となった。 宗瑞は伊豆の堀越御所にいた茶々丸を攻撃し、この事件を伊豆討ち入りという、

延徳3年(1491年)享徳の乱では、鎌倉公方・足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領し、成氏は古河城に逃れて古河公方ととなり、幕府方の関東管領山内上杉家・扇谷上杉家と激しく戦った。将軍・義政は成氏に代わる鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条を本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。成氏と幕府との和睦が成立(都鄙和睦)、成氏が正式な鎌倉公方と認められた。それに伴い、政知は幕府から伊豆一国の国主としての地位を与えられたが、公方としての権威は名実ともになくなった。 明応2年(1493年)4月、管領・細川政元が明応の政変を起こして、将軍・義材を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを幕臣であり、茶々丸の近隣に城を持つ宗瑞に命じたとされる。これを受けて、宗瑞は伊豆の堀越御所にいた茶々丸を攻撃し、この事件を伊豆討ち入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている。この後、宗瑞は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。 宗瑞は伊豆の統治にあたり、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、「伊豆一国は30日で平定された」と言われる。

小田原城奪取

扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、早雲は相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。

二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの宗瑞のことである。 明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は宗瑞に援軍を依頼。扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去した。 『北条記』によれば、ある日、宗瑞は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。 小田原城奪取など宗瑞の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-宗瑞の陣営と、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を宗瑞が騙し討ちしたとされるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。 明応8年(1498年)、宗瑞は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。

相模平定について

小田原城のその後、相模方面へ本格的に転進し、三浦氏は滅び、伊勢氏が相模全域を平定

三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城または三崎城(現三浦市)を子の義意が守っていた。宗瑞は鎌倉を占領して、相模の支配権をほぼ掌握する。 義同はしばしば兵を繰り出して戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められた。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。義同・義意父子の籠る三崎城に攻め寄せた。堅固な三崎城攻めは凄惨な激戦の末に義同は自害、義意は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、伊勢氏が相模全域を平定した。

北条氏綱について

北条氏2代当主、伊勢宗瑞 (伊勢盛時、北条早雲) の跡を継ぐ。領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。

なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、宗瑞の別名として伝わる「長氏」「氏茂」「氏盛」の偏諱に由来するものとも考えられるが(もっとも、近年の研究では宗瑞の諱は「盛時」であったとするのが定説となっている)、氏綱の元服時に宗瑞がまだ今川氏親からの偏諱として与えられたのではないかとする説がある。 虎の印判状を用いるようになっている。 宗瑞の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた。 北条への改称 氏綱は名字を伊勢から北条へと改めたと推定される。

北条氏康について

後北条氏第3代当主 河越夜戦 武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配。

後北条氏第3代当主 河越夜戦 河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配。三国同盟・武田・今川両氏との婚姻交渉を進め、氏康の娘を今川義元の嫡男に嫁がせ、武田晴信の娘を氏康の嫡男・西堂丸に嫁がせることになった。 ・上杉謙信との戦い

北条氏政について

後北条氏の第4代当主。生野の戦いで勝利し、失地回復

信長死後、滝川一益と対立。秀吉の小田原征伐に。

北条氏直について

後北条氏の第5代当主である。母は武田信玄の娘父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、外交の失敗で豊臣秀吉による小田原征伐を招き、後北条氏の関東支配は終焉を迎えた。

氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。しかしながら秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、家康の婿であったこともあり助命された。他方、氏政・氏照及び宿老は切腹を命じられ、氏政・氏照が切腹となった。

川越夜戦について

天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」である。

北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍。予期しない敵襲を受けた上杉勢は大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死、山内上杉方では上杉憲政はなんとか戦場を脱出し上州平井に敗走したが、この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は滅亡。上杉憲政は長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り越後へ落ち延びることになる。 同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居した。

平治の乱について

1159年 後白河上皇の側近である藤原信頼と源義朝が、平清盛と対立したことから始まる。平清盛が勝利し、源義朝は討たれました。この出来事は、平氏の勢力が大きく強まるきっかけとなった。

源義平について太鼓をたたく

平安時代末期の武将で、源義朝の庶長子。「鎌倉悪源太」とも呼ばれ。1155年の大蔵合戦で叔父の源義賢を討ち取るなど、若くしてその名を轟かせた。その後、保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)にも参戦し、特に平治の乱では平清盛に対抗して奮戦しましたが、最終的には敗北し、1160年に処刑された。

儀同三司母(ぎどうさんしのはは)について

中関白藤原道隆の妻、儀同三司伊周(これちか)や一条天皇の后・定子を生みました。中関白とは、道隆の父・兼家(かねいえ)も弟の道兼(みちかね)も関白になったことによる呼び名です。夫の死後、出家しましたが、伊周が失脚したため、晩年は不遇でした。tame a tiger

忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな

「いつまでも忘れない」という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。

胆沢城・志波城について

坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。

翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。

徳政相論・桓武天皇

805年参議藤原諸嗣諸嗣(おつぐ)菅野真道「平安京の造営と蝦夷征伐」諸嗣の意見をとって中止

ニ所朝廷について(兄弟げんか)

810年嵯峨天皇の代・平城上皇(桓武天皇の子)が平城京遷都を宣言。(詔勅・天皇のみことのり)

  • 平城上皇側(兄) 藤原仲成(種継の子)・藤原薬子(仲成の妹)
  • 嵯峨天皇側(弟) 藤原内麻呂・造宮使いとして藤原冬嗣・坂上田村麻呂
  • 上皇は出家・薬子は服毒・藤原式家の力は衰え、北家が力を付ける。
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