キャンセルするけどいいのか?ホントにいいのか?
御三卿とは?
田安家・一橋家・清水家
御三卿は大名として藩を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、次男の宗武(田安家初代)へ、四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。
太田 道灌(おおた どうかん)について?
室町時代後期、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れ。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城、学者としても一流であった。
室町時代後期、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城し、武将としても学者としても一流という定評があった。
太田道灌の生誕について。
永享4年(1432年)、鎌倉公方を補佐する関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。埼玉県越生町を生誕地とする伝承がある。
関東管領上杉氏について?。
関東管領上杉氏は山内上杉家・犬懸上杉家・宅間上杉家・扇谷上杉家に分かれ、このうち山内家と犬懸家が力を持っていたが、上杉禅秀の乱で犬懸家が没落した後は山内家が関東管領職を独占し、太田氏の主君扇谷家は山内家を支える分家的な存在であった。
永享の乱について?
鎌倉公方・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立。
父・太田資清()が扇谷上杉持朝を補佐していた時代に、鎌倉公方・足利持氏と関東管領・山内上杉憲実の対立から永享の乱へと発展し、持氏は室町幕府軍に敗れて鎌倉公方は中絶する。後に幕府によって持氏の子・足利成氏が鎌倉公方に、憲実の長男・山内上杉憲忠が関東管領に任じられると、山内上杉憲忠の義父である扇谷上杉持朝の要望により太田資清が、山内家家宰・長尾景仲と共に、関東管領である山内上杉憲忠を補佐した。長尾景仲は太田資清の義父で、道灌にとっては母方の祖父にあたる。
享徳の乱について?
享徳3年(1454年)、山内上杉憲忠が足利成氏に暗殺され、上杉一門は報復に立ち上がった。
ところが享徳3年(1454年)、山内上杉憲忠が足利成氏に暗殺され、上杉一門は報復に立ち上がった。翌享徳4年(1455年)に分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、当時の扇谷家当主・上杉顕房(扇谷上杉持朝の子)が討死した。室町幕府は成氏討伐を決め、駿河守護・今川範忠率いる幕府軍が鎌倉に攻め寄せる。敗れた成氏は下総古河城に拠って抵抗する(古河公方)。関東地方はほぼ利根川を境界線として、古河公方陣営の東側と関東管領陣営の西側に分断された(享徳の乱)。
太田道真・道灌父子が築いた城は?
武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)・武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した(桜田郷の台地)。
古河公方側と戦うために、顕房死後に扇谷家当主に復帰した扇谷上杉持朝の命で、武蔵国入間郡に河越城(埼玉県川越市)、埼玉郡に岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いた。(岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、近年に道灌と対立した古河公方成氏方の忍城主・成田正等によって築城されたとする資料が見つかるに及んで、現在は後者の学説の方が有力となっている)。更に古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界である当時の利根川下流域に城を築く必要があった。道灌は、元来は江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した(桜田郷の台地)。皇居には現在も「道灌濠」の名が残る。
堀越公方とは?
8代室町将軍・足利義政の異母兄・足利政知
長禄2年(1458年)、8代室町将軍・足利義政の異母兄・足利政知が関東に下向したが(堀越公方)、古河公方との戦いは膠着していた。
五十子の陣(享徳の乱)
五十子陣体制のもと、18年にわたり両軍は対峙することになる。山内家は越後上杉家から養子に入った上杉顕定が継いだ。
文正元年(1466年)、関東管領・山内上杉房顕(山内上杉憲忠の弟)が死去した。すでに上杉方は武蔵五十子(いかっこ、現・埼玉県本庄市)に城を造り、古河公方側と対峙していた。この五十子陣体制のもと、18年にわたり両軍は対峙することになる。山内家は越後上杉家から養子に入った上杉顕定が継いだ。
翌応仁元年(1467年)に京で応仁の乱が勃発する。
同年、父・道真が長年仕えた扇谷上杉持朝が死去、跡を孫で16歳の上杉政真が継いだ。
翌応仁元年(1467年)に京で応仁の乱が勃発する。同年、父・道真が長年仕えた扇谷上杉持朝が死去、跡を孫で16歳の上杉政真が継いだ。
堀越公方・関東管領上杉氏 × 古河公方(享徳の乱)
古河公方側が攻勢。上杉方は古河公方軍を撃退して古河城へ逆襲して陥落させたが、成氏方は反撃に出て文明4年(1472年)に古河城を奪回し、五十子の陣を強襲、扇谷上杉政真が討死した。
文明3年(1471年)、古河公方側が攻勢に出て武蔵国を突破して箱根山を越え、長駆して堀越公方・政知のいる伊豆国へ進撃せんと図った。上杉方は古河公方軍を撃退して古河城へ逆襲して陥落させたが、足利成氏は千葉孝胤を頼って落ち延びた。一旦は上杉方が優勢となったが、成氏方は反撃に出て文明4年(1472年)に古河城を奪回し、文明5年(1473年)には五十子の陣を強襲、扇谷上杉政真が討死した。政真には子がおらず、道灌ら重臣が協議して政真の叔父にあたる上杉定正を扇谷家当主に迎えた。
このころの駿河国の守護
駿河国守護の今川義忠が遠江国で討ち死にし、遺児の龍王丸(今川氏親)と従兄弟の小鹿範満のいずれが家督を相続するかで争いが生じ内紛状態となった
道灌は上杉定正の命により定正の縁者(従兄弟の子)である小鹿範満を家督とするべく、犬懸政憲とともに兵を率いて駿河に入った。 この今川氏の家督争いは、龍王丸の叔父の伊勢新九郎(宗瑞、北条早雲)が仲介に入って、小鹿範満を龍王丸が成人するまでの家督代行とすることで和談を成立させ、駐留していた道灌と犬懸政憲も撤兵した。
長尾景春の乱について?
山内家家宰・長尾景信が死去した。跡を子の長尾景春が継いだが、山内顕定は家宰職を景春ではなく景信の弟・長尾忠景に与えてしまい、これを景春は深く恨んだ。
道灌が駿河に出張していた同年6月、長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って古河公方と結び挙兵した。 長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走、長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。 同年3月、道灌は兵を動かして景春の本拠・鉢形城を囲んだが古河公方成氏が出陣したため撤退して、早期に景春を討つ好機を逃した。 なおも抵抗を続けていた長尾景春も文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落した(日野城の戦い)。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙和睦」と呼ばれる和議が成立、30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。
太田道灌の暗殺
文明18年(1486年)扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた。道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。享年55
道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は山内家を凌ぐほどに大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。 道真・道灌父子の功績が正当に評価されないことに不満を抱き、主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を、和議の人質を名目として古河公方成氏に預けている。 文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた。道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、暗殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。享年55 道灌暗殺により、道灌の遺児・資康はもちろん、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年(1487年)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。
山吹伝説について
兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」(『後拾遺和歌集』所載)に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたの
ある日、鷹狩に出かけた道灌はにわか雨に遭い、蓑を借りようと農家に立ち寄った。出てきた娘は花が咲いた一枝の山吹を差し出すのみであり、彼女の意図を理解できなかった道灌は、蓑を借りようとしたのに花を出されたことに立腹しながら帰宅した。後でこの話を家臣にしたところ、それは兼明親王の歌「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」(『後拾遺和歌集』所載)に掛けて、山間(やまあい)の茅葺き(かやぶき)の家であり貧しく蓑(実の)ひとつ持ち合わせがないことを奥ゆかしく答えたのだと教わった。道灌は古歌を知らなかった事を恥じて、それ以後は歌道に励み、歌人としても名高くなったという。以上が道灌の山吹伝説のあらすじだが、「山吹の里」とされる地は複数存在する。
将軍の猿の伝説
将軍足利義政の猿。大名たちに飛びかかって、大名たちは難渋。太田道灌が上洛して飛びかかろうとするが、道灌がにらみつけると怯えて縮こまってしまった。道灌の知恵にさらに驚いた。
将軍足利義政は1匹の猿を飼っていた。この猿は御所に参内する大名たちに飛びかかって引っ掻き、大名たちは難渋していたが、将軍の猿のために苦情も言えなかった。太田道灌が上洛して御所に参り、猿はいつものように飛びかかろうとするが、道灌がにらみつけると怯えて縮こまってしまった。大名たちは道灌の威に驚いた。 道灌は上洛するとこの猿のことを知り、猿師に賂を渡して猿をしたたかに打ちすえておいたのである。そのため、猿は道灌に睨みつけられると怯えてしまった。大名たちはこれを知り、道灌の知恵にさらに驚いた。同様の逸話が大友宗麟と立花道雪にもある。
太田道灌の銅像のある場所。
1.有楽町駅から1分「東京国際フォーラム」2.「回転一枝」の像(東京都荒川区)JR山手線の日暮里駅東口前広場「山吹の花一枝」の像の乙女の像が設置された。3.新宿中央公園。4.長野県の佐久市立近代美術館近くの佐久市立図書館前庭 5.埼玉県越生町の龍穏寺の本堂の前 6.越生町役場の玄関ロビー7.川越市役所前8.埼玉県川越市鯨井曹洞宗の長福寺9.さいたま市岩槻人形博物館 10.岩槻駅、十分程で曹洞宗の芳林寺。 11.伊豆急線の伊豆熱川駅から海岸通りの方へ数分歩くと、太田道灌の銅像に出会います。 12.伊勢原市役所前には、やはり綾藺笠(あやいかさ)をかぶった道灌さんが立っています。ここから数キロ北方へ行くと、洞昌院があり、太田道灌の墓所が隣接しています。そこから少し北方の大慈寺にも、道灌の墓があります。
1.有楽町駅から1分「東京国際フォーラム」イベント会場。開都五百年を記念。この地にあった東京都庁舎の前庭に設置された。1991年都庁舎が新宿へ移転したとき、太田道灌像はやはり丸の内に立ちつづけるべきだと判断されました。 着物の柄には、太田家の定紋である「桔梗」と替紋(たいもん)の「違い鏑矢」が。 2.「回転一枝」の像(東京都荒川区)JR山手線の日暮里駅東口前広場に、太田道灌の馬上姿の銅像と「回天一枝の碑がある。 そして「一枝」と言う言葉には、あまりにも有名になった山吹伝説の乙女の道灌に対する、細やかな心遣いが感ぜられます。 「山吹の花一枝」の像 この一角に「山吹の花一枝 」と題し、道灌に山吹の花一枝をささげる乙女の像が設置された。 3.新宿の「久遠の像」(東京都新宿区)広大な新宿中央公園。この公園に、道灌と乙女の等身大の銅像「久遠の像」がある。 説明板には「太田道灌が武蔵野で狩りをした時の伝説の一状景」とあります。狩姿の若い道灌は、やや腰をかがめています。乙女はひざまずいて山吹の一枝を、扇に載せてさし出しています。もちろん像の周囲は、山吹で囲まれています。山吹満開の頃は一幅の絵であり、山吹の里の雰囲気を醸し出しています。 4.佐久の「久遠の像」(長野県佐久市)新宿の「久遠の像」と同じ銅像が、長野県の佐久市立近代美術館近くの佐久市立図書館前庭にあります。 5.山吹の花を持つ道灌像(埼玉県越生町)埼玉県越生町の龍穏寺の本堂の前に、太田道灌の狩姿のやや小振りの銅像があります。 ここの道灌さんはあごひげを生やした若々しい表情で、腰に太刀をさげ、左手に弓矢、右手に山吹の枝を持っています。山吹伝説の道灌が立っているのです。 6.躍動する道灌像(埼玉県越生町) 2016年12月5日、越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌像とガラス絵のパブリックアートが登場しました。 7.川越のダンディ道灌像(埼玉県川越市)川越市役所前でひげの太田道灌像に会える。この太田道灌像は、1972年(昭和47年)川越市の市制五十周年を記念して市庁舎が新築された際に、市庁舎前すなわち川越城大手門跡に建てられ。 8.嗣法の道灌像(埼玉県川越市)川越市鯨井(くじらい)というおもしろい名前の地域があり、そこに曹洞宗の長福寺があります。この寺は、1436年(永享8年)雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山となり創建された古刹です。この寺の本堂前に、太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像があります。 9.文人の道灌像(さいたま市岩槻人形博物館)岩槻城の築城者とされていた太田道灌の銅像が立っていました。その後、岩槻城築城者について、太田氏、渋江氏、成田氏がエントリーされ、岩槻城築城者の最終決定はペンディング状態となりました。 さらにその後、岩槻市とさいたま市が合併され、岩槻区役所が取り壊され、さいたま市岩槻人形博物館と交流会館がオープンしました。かつては、岩槻市役所玄関で来る人を迎えてくれた道灌さんは今、博物館の脇にしずかに立って、訪れる人々を見つめています。 10.武人の道灌騎馬像(埼玉県さいたま市) 岩槻駅、十分程で曹洞宗の芳林寺。この寺は、太田道灌ならびに岩槻城主太田氏資有縁といわれています。太田氏資は、母の芳林妙春尼を追善するため、母をこの寺の開基とし、寺号を芳林寺としました。 芳林寺の山門をくぐるとすぐ右側に、太田道潅のプロンズ像が建っています。 11.猿を連れた道灌像(神奈川県東伊豆町)伊豆急線の伊豆熱川駅へつきます。駅前の源泉やぐらから湯けむりが立ち、近くに足湯があります。駅から海岸通りの方へ数分歩くと、太田道灌の銅像に出会います。この銅像は、西伊豆出身の彫刻家堤達男氏の制作で、昭和50年頃、地元の観光協会と旅館組合が建てました。銅像は温泉の成分のためか赤く変色しています。 ここの道灌は猿を連れています。道灌が天城山で巻き狩りを行ったとき、猿が湯につかっているのを見て、温泉を発見したという伝承にちなむのだそうです。 12.伊勢原の道灌像(神奈川県伊勢原市) 伊勢原市役所前には、やはり綾藺笠(あやいかさ)をかぶった道灌さんが立っています。二宮尊徳像の制作で有名な三代目慶寺丹長(けいじたんちょう)氏の制作です。道灌さんは弓矢を持ち、着物の柄には太田家の家紋である「桔梗」と「違い鏑矢」とを浮き出しています。 ここから数キロ北方へ行くと、洞昌院があり、太田道灌の墓所が隣接しています。そこから少し北方の大慈寺にも、道灌の墓があります。
フェートン号事件とは?
1808年英国軍艦フェートン号がオランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し,オランダ商館員から食糧・薪水を奪った事件。
ナポレオン戦争における英・蘭の対立の結果である。 長崎奉行松平康英は責任をとって切腹。 以後英国船の来航が多く,幕府は1825年異国船打払令を出すに至った。
モリソン号事件とは?
天保8年(1837)日本人漂流民を伴い、通商を求めて来航した米国の商船モリソン号を、幕府が異国船打払令に基づいて砲撃し、退去させた事件。
幕府のこの強硬策の危険性を渡辺崋山・高野長英らは批判・警告し、蛮社の獄による弾圧を招いた。
蛮社の獄とは?
天保10年(1839)江戸幕府が尚歯会の渡辺崋山・高野長英らに加えた言論弾圧事件。
モリソン号事件などにおける幕府の政策を批判した罪などにより、崋山は国元での 蟄居 、長英は永牢に処された。
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