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cate1-5 鎌倉北条氏について

鎌倉北条氏について簡単に述べよ。

伊豆国出身、鎌倉幕府の執権職を世襲。通字は時(とき)。

北条時政は、娘北条政子が源頼朝の妻となり頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。亀の前事件で頼朝に抗議して伊豆に閉居していた時期もあったが、やがて頼朝の命で京都守護として京都の治安回復や朝廷との交渉にあたった。特に独裁権をふるった頼朝の死後は源氏以外で初の国守に任官したり、政策機関としての十三人の合議制に親子で名を連ねるなど、並び御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修禅寺に幽閉した上で謀殺した。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

北条時政について

北条政子の父。政子が源頼朝の妻に。頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。頼朝の死後は、十三人の合議制に親子で名を連ねるなど、御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修禅寺に幽閉した上で謀殺した。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

だ!

北条政子の父。政子が源頼朝の妻に。頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力、頼朝が征夷大将軍に任じられると、有力御家人としての地位を得る。頼朝の死後は、十三人の合議制に親子で名を連ねるなど、御家人から一歩抜きん出た勢力となっている。頼朝の子源頼家・源実朝の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修禅寺に幽閉した上で謀殺した。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

2代執権義時について

2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇が北条氏排除を企てた承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。

2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え(摂家将軍)、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇が北条氏排除を企てた承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。

3代執権北条泰時について

御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。

3代執権北条泰時は御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。

第5代執権・北条時頼について

第5代将軍・頼嗣を追放し、宗尊親王を第6代将軍に迎えることで、この危機を乗り切り朝廷との関係を固めた(皇族将軍)

「鉢の木」の逸話は有名

第8代執権・北条時宗について

元寇と戦う。西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。

第8代執権・北条時宗は元からの国書を黙殺して、御家人を統率して元寇と戦う。これを機に鎌倉幕府は非御家人への軍事指揮権も獲得したほか、西国での支配権が強化され、北条一門が鎮西探題、長門探題として派遣された。また、北条一門の諸国守護職の独占も進む。

第9代執権・北条貞時について

平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。

時宗の息子・第9代執権・北条貞時は平禅門の乱で内管領の平頼綱を滅ぼして得宗専制を確立する。これらにより、御家人層の没落が進行し、没落した御家人の中には御内人になる者もあらわれる。

第14代執権・北条高時について

貞時の子・第14代執権・北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。最後は、東勝寺合戦において敗戦し北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡する。<

貞時の子、北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年(元弘3年/正慶2年)に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。最後は、東勝寺合戦において敗戦し北条一族のほとんどは討死、また直後に自害し北条氏は滅亡する。

中先代の乱について述べよ。

北条氏の守護国、信濃国で高時の子・時行が挙兵、中先代の乱を起こす。鎌倉を占領する。足利直義は、護良親王を殺害。尊氏は時行を駆逐し建武政権から離反。

北条氏の守護国のひとつであった信濃国で高時の子・時行らが挙兵し、中先代の乱を起こす。時行軍は足利方の信濃守護・小笠原貞宗を破り、鎌倉を占領する。鎌倉にいた足利尊氏の弟・足利直義は、幽閉されていた護良親王が時行に担がれる事を警戒し、家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させる。尊氏は後醍醐天皇の勅状を得ないまま乱の討伐に向かい、時行を駆逐してそのまま鎌倉へ留まり建武政権から離反する。その後、時行は南朝から朝敵免除を受け、観応の擾乱の際に武蔵国で再度挙兵するが、尊氏に敗れて捕らえられ斬られた。

北条時頼の「鉢の木」について

早くから人形浄瑠璃や義太夫、元禄時代には近松門左衛門が「最明寺殿百人上﨟」を書き、享保期には「北条時頼記」が大当りをとっている。歌舞伎では中村座の「女鉢木三鱗」、江戸市村座の「鉢木大鑑」等々の演目に取り入れられて人気を呼んだ。また大正期から昭和初期にかけて尋常小学国語読本・巻十にも「鉢の木」が掲載された。栃木県の小学校では現代でも道徳教育の題材として用いられており。ある大雪のふる夕暮れ、佐野の里あるあばら家に、旅の僧が。自分は佐野源左衛門常世といい、以前は三十余郷の所領を持つ身分であったが、一族の横領ですべて奪われ、このように落ちぶれたと身の上を語る。噺のうちにいろりの薪が尽きて火が消えかかったが。常世は松・梅・桜のみごとな三鉢の盆栽を出してきて、折って火にくべた。一旦鎌倉より召集があれば、馬に鞭打っていち早く鎌倉に駆け付け、命がけで戦うと決意を語る。 年があけて春になり、突然鎌倉から緊急召集の触れが出た。常世も駆けつける、常世は北条時頼の御前に呼び出された。失った領地を返した上、あの晩の鉢の木にちなむ三箇所の領地(加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土)を新たに恩賞として与える。

古代三関について

三関(さんげん、さんかん)とは、古代の日本で畿内周辺に設けられた関所の内、特に重視された3つの関の総称。三国之関とも呼ばれた。当初は不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内か)の3つを指したが、9世紀初頭に逢坂関(相坂関。近江国、現在の滋賀県大津市付近か)が愛発関に代わった。

三関の役割 政情不安の際交通を遮断のため、堅く閉められる。兵器類が常備され、必ず複数の国司四等官が関を守護するため常駐する。非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣する。この際、蔵司が保管する関契とよばれる割符の左符が固関使に与えられ、三関で国守によって保管されていた右符と照合を行なう。これが一致すると非常事態と認められ、関が閉鎖された。これを固関と呼ぶ。非常事態が解消した後の解関(開関)も同様の手続きによった。

清少納言「枕草子」

春はるは、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこし明りて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。

夏は、夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛ちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行も、をかし。雨など降も、をかし。

  • 秋は、夕暮れ。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行とて、三つ四つ、二つ三つなど、飛いそぐさへあはれなり。まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。
  • 冬は、つとめて。雪の降たるは、言ふべきにもあらず。霜のいと白きも。またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし

清少納言について

966年ごろ生。清少納言は歌人である清原元輔お娘。元輔は三十六歌仙の一人、小倉百人一首にも詠んだ歌が。離婚 橘則光離婚。宮中での仕:一条天皇の中宮定子の女房。『枕草子』を通じて、日常の美しさや感じたことを独自の言葉で綴り、後世に多くの人々に愛される作品を残しました。

清少納言・百人一首

夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも よに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ

夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、函谷関(かんこくかん)ならともかく、この逢坂の関は決して許しませんよ。(だまそうとしても、決して逢いませんよ)

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

二人でお互いに涙でぬれた袖を絞りつつ約束したよね。「この愛は 永遠だね。どんな波でも末の松山を越えることが永遠にないのと同じように」って、約束したのにね。

  • 元輔は清少納言の父・清原深養父の子・または祖父

清原深養父。百人一首

夏の夜は まだ宵(よひ)ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿(やど)るらむ

夏の夜は(とても短いので)まだ宵の時分だなあと思っていたら、もう明けてしまった。月も(西の山かげに隠れる暇もなくて)いったい雲のどこのあたりに宿をとっているのだろうか。

  • 清少納言の祖父または曽祖父・清原元輔の父または祖父

香炉峰の雪「枕草子。(第280段)」

雪のいとたこう降たるを、例ならず御格子まいりて、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などしてあつまりさぶろうに、「少納言よ。香炉峰の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾(みす)をたかくあげたれば、笑わせ給(たもう)。

人々もさることはしり、歌などにさえうたえど、「おもいこそよらざりつれ。猶(なお)此(この)宮の人にはさべきなんめり」という。

堀兼の井(枕草子第168)

「井は堀兼の井。玉の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん

紫式部(百人一首57番)

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半(よは)の月かな

せっかく久しぶりに逢えたのに、それが貴女だと分かるかどうかのわずかな間にあわただしく帰ってしまわれた。まるで雲間にさっと隠れてしまう夜半の月のように。

更級日記・菅原孝標(たかすえ)女

今は武蔵の国になりぬ。ことにをかしき所も見えず。浜も砂子白くなどもなく、泥(こひぢ)のやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻(あしおぎ)のみ高く生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで、高く生ひ茂りて、中をわけゆくに、たけしばといふ寺あり。はるかに、ははさうなどいふ所の、らうの跡の礎(いしずえ)などあり。

今は武蔵の国となった。別段情緒のある所も見えない。浜も砂が白いわけでもなく、泥土のようで、紫草の産地として歌にも詠まれた武蔵野も、蘆や荻ばかりが高く生えていて、武士が馬に乗って弓を持っているその弓の先が見えないほどに、高く生え茂っていて、中を分けてゆくと、竹芝寺というのがあった

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