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cate1-11 万葉集より

奥の細道 天龍寺の句

61 物書きて 扇引きさく なごりかな

奥の細道 敦賀の句

62 月清し 遊行の持てる 砂の上

63 名月や 北国日和 定めなき

だ!

奥の細道 種の浜の句

64 寂しさや 須磨に勝ちたる 浜の秋

65 波の間や 小貝にまじる 萩の塵

奥の細道 大垣の句

66 蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ

江戸幕府開府

関東戦国史について その1 享徳の乱

鎌倉公方足利持氏と足利義教・上杉憲実の対立

永享の乱⇒結城合戦⇒(嘉吉の乱)⇒江の島の戦い⇒享徳の乱⇒(応仁の乱)⇒長尾景春の乱⇒長享の乱

  • 永享の乱 足利義教・上杉憲実に不満なのが足利持氏(鎌倉公方)自刃・鎌倉府滅亡
  • 結城合戦 持氏の遺児と結城氏朝が挙兵したが討ち死に、足利義教が子二人も殺害。
  • 嘉吉の乱 義教が、家臣である播磨・備前・美作の守護・赤松満祐(みつすけ)に暗殺された

関東戦国史について その2 享徳の乱について

足利成氏が上杉憲忠を殺害、古河公方×上杉連合軍

  • 憲実の長男・上杉憲忠が山内上杉家当主と関東管領に就任・足利成氏鎌倉公方となる(鎌倉府の復活)
  • 享徳の乱 足利成氏が上杉憲忠を殺害、下総古河に入り古河城を本拠地とし古河公方と呼ばれた。(利根川をはさんで上杉連合軍と古河公方との戦い)
  • 第8代将軍・足利義政は政知を鎌倉公方として関東に送るが入らずに堀越公方。。
  • 関東管領・上杉房顕(五十子の陣)古河公方・足利成氏 上杉教房が戦死、成氏側の勝利。 以後、五十子陣を挟んで約18年間(五十子の戦い)。
  • 上杉顕定が後継者(関東管領)に。京都で応仁の乱が始まる。

関東戦国史について その3 長尾景春の乱について

長尾景治の乱 家宰職は当主上杉顕定が景春の叔父の長尾忠景に与えた。景春はこれを深く恨み、乱を起こす。長尾景春が五十子陣を急襲、11年間に及び勝負はつかなかった。太田道灌の活躍により長尾景春は力を落とす。

  • 「都鄙合体(とひがったい)」山内上杉顕定+扇谷上杉定正 和議 古河公方・足利成氏は認められる。しかし扇谷上杉定正は不満。長尾景治は没落
  • 扇谷上杉定正が、家宰・太田道灌を暗殺

関東戦国史について その4 長享の乱について

長享の乱勃発・山内上杉家の上杉顕定(関東管領)VS扇谷上杉家の上杉定正。結果、伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出を許す結果

  • 古河公方は、足利政氏が父・成氏から譲位され家督を継承
  • 伊豆の堀越御所の足利茶々丸を襲撃 伊勢盛時(北条早雲)が伊豆討ち入り
  • 扇谷上杉家家臣・大森藤頼(小田原城城主)伊勢盛時(北条早雲)が、小田原城を奪取
  • 永正2年(1505年)再度顕定の軍勢に河越城を包囲された上杉朝良は降伏を表明した。戦後、朝良の処遇は二転三転したが、結局、扇谷上杉家の当主をそのまま継続した。扇谷朝興の子上杉朝定は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨むが、天文15年(1546年)河越夜戦で戦死(異説あり)し、扇谷家は滅亡した。

大伴家持の、大和朝廷が置かれた奈良の都の繁栄ぶりを詠んだ万葉集の歌は?

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」

〈山上憶良〉万葉集の歌

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ

私憶良はもうこれで退出致しましょう。今頃家では子どもが泣いているだろうし、その子の母も私の帰りを待っているだろうから。

〈山部赤人〉の百区人一種にもちょっと違うが採用されている歌は?

田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

〈大伴坂上郎女〉の代表的な万葉集の歌は?

来むといふも来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを

来ようと言っても来ない時があるのに、はじめから来られないだろうと言うのを来るだろうと待ったりはしません。来ないと言っているものを。

大伯皇女(おおくのひめみこ)と大津皇子の万葉集の歌?

うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背とわが見む(大伯皇女)

百伝ふ磐余いわれの池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ〈大津皇子〉

有間皇子の万葉集の歌?

家にあれば笥けに盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る〈有間皇子〉

有間皇子が蘇我氏の策略により謀反人として捕らえられ、護送される途中に詠まれた歌です。笥(け)とは物を入れる器のことで、普段であれば食器に盛っていたのに、今は葉っぱの上に盛っているという境遇の落差が表されています。

万葉集より東歌(作者未詳)

多摩川にさらす手作りたづくりさらさらに何そこの児このここだ愛かななしき

多摩川の水にさらして作る麻の布のように、さらにますますこの子が愛しく思えるのはどうしてだろう。

貧窮問答歌(山上憶良)万葉集

父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊く事も忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るということわざと同じように、笞を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。

楠木正行の辞世の句は

「かへらじとかねておもえば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」

この句は、奈良県吉野山の如意輪寺の本堂の正面の扉に、楠木正行が四条畷の戦いに向かう際に矢の先(鏃)で刻んだと言われています。

中野竹子の辞世の句は

「武士の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」

中野竹子は、戊辰戦争で柳橋付近で奮戦し、戦死した娘子隊軍隊長です。出陣の際に薙刀に結び付けていたというこの辞世の句は、昭和13年に会津若松市神指町黒川の湯川橋に建てられた中野竹子殉節碑に刻まれています

西郷千重子の辞世の句

なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節の ありとこそきけ

城下では、戦いの足手まといにならないようにと自刃(じじん)した婦女子が多くいた。 西郷頼母邸では、千重子(飯沼家より嫁ぐ)の長女ら5人をはじめ、一族21人が城に入らず屋敷で自刃した。

蒲生氏郷の辞世の句は

「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」

「人の命は桜と同様に限りがあるのに、心気ぜわしく花を散らす春の風であることよ」という意味です。織田信長の寵臣で、信長の娘である冬姫と結婚しています。会津若松の基礎を築き、黒川を会津と改めました。

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